昭和54年01月10日 月次祭



 今朝の御祈念の後に、久富繁雄さんがお届をされましたのに、昨日家に帰らせて頂きましたら、お神様に「富貴」というお酒が一本お供えがしてあった。こりゃどうしたのかというたら、ご長男の国男さんが、そりゃ僕が今度福引で引き当てたちいうて。富貴というあのお酒を景品に頂いて、そりゃどういうことであったかというと、札が「富貴自在」という引き札があったそうです。
 こりゃおかげ頂いたねって。こりゃも親、現在の合楽では親先生だけが頂かれるおかげなんだ。何時も茶の間でお茶の御用をさせて頂く。一緒にお食事をさせて頂く時に、正面にかけてあるこう竹に、「富貴自在」という柱掛けが掛かっております。あれを頂いた時に、「富貴自在」というのは、おかげの全てが自由自在に頂けれるような徳ということである。これ、国男本当に大変おかげ頂いたもんじゃあるな。
 俺が今度引かせて頂いた札は、こういう札で、もう本当にいよいよ今年こそは、一家が勢を揃えて、この富貴自在のおかげの頂けれるような、いっちょおかげを頂かなきゃならんぞというて、まぁ話しました。そしたら横から、嫁御がその話を聞きよってから。違うごと、親先生のといわりゃ、お父さんあんたんとやろうが。もう違うことちゃんとこう引き札が決まっとるとじゃがち。でなかったらあんまりよすぎるち。というたというお届がございました。
 もう私は何時もそれを思うんですけれども、合楽の場合にはあまりにもね、そのおかげというか現れというものが、真実性をかぐほどしに今の世の中に、そういうことがあるだろうかと。今の宗教にそう言う様な働きのある宗教があるだろうか、と思われるほどしのおかげが、何時もここではあっておるということなんです。だから私はそれを聞かせて頂いて、また改めて食事を一緒にさせて頂きます時に、そりゃ繁雄さん、嫁御がそげんいうてもね、問題はあんた一人が有り難いと思うときゃいいじゃないのと。
 本当にこういう素晴らしい神様の願いが久富の家にかけられておる。こういうおかげをいよいよもって、おかげを頂いて行く、神様のそのお心の奥の方を思うた時に、有り難いと思うときゃいいじゃないのと。まぁいいながらも、実は私自身も寂しかったですね。本当にそれ、本当に合楽の神様ちゃあらたかですね。有り難いですね。今年はいっちょ私も信心な出来んばってん、まぁ後からでも着いてこらせて頂こうというような風にあるなら、まだよかろうとこう思うわけですけどね。
 なかなか思うようにならんのが浮世である。ね、そりゃそげんいや、私はそげん久富繁雄さんが引き当てられたのは、私がその日、色紙に「和楽」とかいた。これは誰が引き当てるじゃろうかと。まぁ合楽で引き当てるならこりゃ繁雄さん位なもんじゃろうと思うて書いたのが、本当に繁雄さんが引き当てられたけんで、こりゃ誰かが繁おっちゃまにちゃんと札はやっとっちゃなかじゃろうかと私が思う位じゃったもん。去年。
 けれども合楽の場合は、本当に、それこそ、おかげの場合でも、合楽は桜使っておるといわれるぐらいな時代があったんですけれども。ね、桜を使うこともなからなければ、そういう不自然なことを言うたり、したりしたことがない。もう本当に神乍らなおかげである。ね、ひょっとすると今度の福引なんかでも、ありゃ親先生と親奥様とは別にちゃんととっておってから、やったちゃろうというごとある。私の信心、私のきき札は、「水も漏らさぬ信心」ということであった。
 なら水を漏らさん信心っていうのは、何人もありました。けれどもここで、分からせて頂かなきゃならんのは、ね、まぁ私の信心は水も漏らさんような信心しておるから、水も漏らさんようなおかげを頂き留めておるんだという。これが実証なんです。証なんです。ね、ところをその、お互いがそのおかげを頂いてないところから見ると、なら水も漏らさんような信心を心がけよということになるのじゃないでしょうか。皆さんが引かれた札でもやっぱりそうなんですよ。
 私の家内のつは、生神のしょう、「生神への精進」ということであった。親奥さんのと、親先生のとは、ちゃんともう別によか札ばちゃんととってやってあるじゃろうかと思うた人も中には、そんな風に、繁雄さんがたん嫁御じゃないけれども、あったかも分からんわけです。ね、というほどしの、いうならば、あらたかなというか、間違いのない働きが、合楽の教会の上には起こっておる。ね、そういうことだから、なら何時も、ずっとお天気が続くかとか、ね。
 風もなからなければ、雨もないかということではない。雨もある。風もある。それこそ吹き折れはせんだろうかというような嵐にあうようなこともあるんだけれどもね、それが、神乍らであると頂き、分からせて頂くまでは、信心にやっぱ年季がいらんとおかげにならん。今日も福岡から、川上さんのお導きで参ってくる方が、ね、東京に子供がお産のために、東京に行っておられた。おかげで無事安産のおかげを頂いた。
 その上の子がおもちゃなんか遊びよって、この目をこの辺をこう何針か縫わんなるように、おもちゃでケガをした。もうそん時ばっかりは、いよいよ神も仏もないものかと私は思いましたというんです。だからそんなに思うて、帰ってきたけれども、娘は安産のおかげを頂いた。そうでこうおかげを頂いて来ておるけれども、それがいっちょんおかげをおかげと感じん。もう神も仏もあるもんか。あぁとにかく女の子ですから、ね、ここに傷どんが残ったらどうするかと。
 縫うたけれども、ちょっと脹れあがったようにして、こう傷が残っておる。もうその事だけがん頭にあって、おかげという実感がない。それを川上さんからこんこんとお話を聞かせて頂いて、そげんいやそうですなというて、初めて正月からお礼参拝してきた。ね、だからそれが本当に、例えてこれがもう皆さんの場合であったらですよ。なら娘がお産をするから東京へいっとった。ちゃんとお願いをして、安産のお繰り合わせをお願いして、安産のおかげを頂いた。
 何時もその難産の癖があるです。今度はおかげを頂いて安産のおかげを頂いた。ところがその姉娘、孫の方が怪我をした。はぁもう大難を小難でお祭りぞえを頂いた。おかげ頂いて有り難かったということになるだろうけれども、たったたったちうかそれだけのことでです、ね、いうならば神も仏もないもんと私は思うたと言う様な、これはやっぱり年季をいれなきゃ出来ませんです。
 どんな場合であってもおかげ、と頂けるような信心になるまでの、いうならば稽古。先ほどかよこ先生がここで、お話をいたしておりましたように、それこそ梅一輪一輪の暖かさでございます。信心辛抱も一遍したからというのじゃない。その一輪一輪咲きほころんで行くようにです、ね、私共の信心が一段一段本当のものになって行くというおかげ。そういうおかげをです、合楽の場合にはね、実証又は実感しながら、それを頂いていくことが出来るというところが、合楽の有り難いところじゃないでしょうか。
 生きた神をここに現し、生きた神の働きを目の当たりに見る、聞くことが出来る。本当にこれは桜を使ってあるのじゃなかろうか、これは何か演出してあるのじゃなかろうかと思うようにあるのです。2、3日前も、私のお手洗いに、綺麗な花がお手洗いそれから、洗面所、私の部屋刺してある。あのございましたが。まだ変えんでもいいのに誰かがその、その綺麗な、菊の花かなんか、菊の花が来ておりましたから、菊の花とどこもここも菊の花に変えてある。
 私の部屋には、白の水仙が一個植えてある。お手洗いには菊の花が一輪刺してある。便所にもおて、そのあれがし、菊の花。まぁこりゃ白ばっかりで、と思うておりましたら、その朝、もうそれこそ、もうほんにびっくりするように、その前の日に、何十年ぶりにその嫁さんをどうどうで、お参りをして来た高山さんというとこの、植木の手入れをして下さる方なんですけれども。その方が今度あっという間に亡くなられた。
 私のとこへ、白の花が集まってくる時にはね、例えば今日はここにも花がいっぱいね、もう白の花がいっぱい集まってくる、でもそこには、カーネーションという真っ赤なカーネーションがいっぱい集まってきておるでしょう。これは黄なじゃいかんもん。やっぱ白でなかにゃいかんでしょう。白と赤であって、初めて紅白の美しさとか、目出度さというものを感じるんです。白だけではやっぱ寂しい。
 それが私のその周辺には部屋にも便所にも、洗面所にも白い菊の花ばっかり。だからこういう白い花を入れたから、信者が亡くなったというのじゃもうそれは、亡くなりどんせんなら大変な事です。ね。合楽に参りよるけんでいっちょん死なんちいうちから、三百歳でございますとか、四百歳でございますちいうごたるならどんこん出来んですもん。(笑い)ね、そりゃもうちゃんと時期がくりゃ亡くならせて頂くから有り難いとです。
 さっき私共、こちらへ出てくる時に、丁度、お花を変えさせて頂いた。昨日一昨日竹内先生が見えておりましたから、あのお母さんの方が、綺麗にまた花を入れ替えてございました。それでその、あのまぁ共励殿のはまだ変えんでもよかったけれども、変えさせて頂いた。共励殿は何時も、この久留米の中村さんが受け持って入れられるんです。最近お花の先生の免許も取られて、僅かばっかりの間にまぁよう、先生になられたたいと思うぐらいに、中々器用な方ですからおかげ頂いた。やっぱそれぞれの流儀がある。
 もう本当に山か野原で、あれこうね野原など行っておりますと、藪なら藪でもそのまま庭にもってきたい。このまま床にもっていったらよかろうと言う様な風情の場合がございますでしょうが。ね、だからやはりお花などというものは、結局そういう意味合いにおいて、自然を生かすのです。何時もこの、この何かこう藪のような感じの花を必ず入れられるんですね。
 ところが今度もやっぱ、そう言う様な藪のような花を入れてございましたけれども、やっぱ正月ですからね、なんかこう、本当に野原の藪をそのまま持って来たごたる風に入れてあるけれども、なんかこう横に肥えたごがあるごたる感じがしてですね、あんまり自然、いや、本当ですよ。(笑い)それじゃいかんでしょうがやっぱりね、もう野原の例えば花を切って来てでてもです、もう切って、切ったが最後もういうならば、あの世のもんではない。この世のもんだということになるわけですきっと。
 ですからそこには、なら人間の一つの技巧というか演出というか、人間のその技術というものとが一緒になって、本当に自然をそのままいけてあるけれども、何とはなしに正月らしい清々しい。いいなぁとこう思うようになかにゃいかん。けども横に肥えたごがあるごたる、その連想する様な花じゃ私がいかんと思うたから今日は変えさせた。ところが、客殿からこうやって持ってきよるうちに、その花がちっとばっかりこう、梅に菊が三輪音締にいれてある。
 それがその汚れ、よごた(ゆがんだ)よがんでおるわけですね。それで吉田先生がまぁ器用ですから、こうしよったけどどうも気に入らんですもん。そして私がちょっとこうやって動かしたら、吉田先生が、いやぁもうそれでようなりましたねて。もう本当に二分か三分かちょっと横によけた、横にこう刺しただけでです、この梅全体が生きて来るし。そして何とはなしに正月らしい、清々しい花になるんです。ね、
 だから自然、自然が良い自然が、自然自然というてね、そんそれこそ肥えたごを感じるような花ではいかんのですね、やっぱ。ね、これも昔でしたけれども、光橋先生がまだあの、連れ合いがまだおります頃。ある時に私にね、先生あなたはもう、その自然を尊ぶ。自然、自然といいなさるが、そのこげなつめでんなんでんあんた、とらんなもう自然に伸び放題にもうしたがようはない、自然じゃないですかとこういうわけです。
 けんあんた馬鹿じゃなかのち私が言うた。なら髪でんそげんのんで、のんで、こうじゃらじゃらするごつ寝たらあんた、御用も出きんじゃんのち。ね、伸びたならこれを、ちゃんとつむとが自然ばい。私がいう自然はそういう自然なんですよ。ね、人間が手を入れるという。いうなら、髪でも自然しぜんとこうやって、石川五右衛門のごと、するということじゃない。
 やっぱのんだら、ひげもそりゃ、いうなら髪も、油もつける、わけもするというようにね、そういう手の入れ方の中に、信心が一朝一夕ではいかないものがあるのです。お花をいれるというても同じことです。もう合楽に来て、神様を感じれ、感じないという人はおそらくなかろうと私は思うです。なるほど合楽の神様は生きてござるな、こういう生きた神様に、こちらの心も生き生きと感じて、そして神様と一緒になって、合楽し合える世界が生まれたら、なるほど良いものが生まれてくるだろう。
 神様を拝む、神様から拝まれる仲というものをいよいよ求めて信心を進めて行こうと言う事になればです、ね、いよいよ有り難いおかげが生みなされてくるし、だろうとこう思うわけです皆。今日もあちらの上方の方から学院で今修行しておる先生が一人、昨日かなんか来てそれからどっか、八幡らへんまで帰っとった。そしたらあそこでその駅で、えらいこう待っとる間に腹を据えたそれで考えた。こりゃまぁ一遍合楽に帰らにゃんとじゃないじゃろうかと思うて。それからまた合楽さん、八幡から帰ってきた。
 それで昨日一昨日、会いが出きなかったけど、今日は丁度私はここへ座っておる時でしたから、まぁお取次ぎさせて頂いたんですけども。せっかく合楽にきたんだから、何かお土産に持って帰らなきゃいけないよと。合楽では今ね、土の信心と。生神を目指すということ。それはね、私共の心の中にある生神の芽をいよいよ育てて行く。その為には、いよいよ土の信心をしなきゃいけない。
 私が雲、雲城という、雲の城と書く教会の修行生の方なんです。したらその、雲の城という、その城という字をこう頂いた。ね、それで土の信心をする、ね、と成就なると書いてある。土偏に成ると書いて、城とある。ね、だからあなた方の願い。神様の願いが成就する。御用に使うて下さいというても、ね、ただ御用に使うて下さい。御用に使うて下さいと言うただけでは、御用には神様は使うちゃくださらん。ね、例えていうならばお道の教師は、神様のお給仕をするようなもんだ。
 それで、神様がままになられるためのお給仕をさせてもらう。どうぞ一杯召し上がってくださいというても、顔はこうよごだごとしとる、手はこう汚れとるとどんが、神、どうぞもう一杯召し上がれちいうたっちゃ、もうそれこそむっとしなさるです神様は。それこそえっちいうごたる。いや本当そげんとがありましょうが。あんほんなこと、えっちゅうごたるとがおるですばい。もう食欲があったとが、一遍で食欲がなくなるごたっとが、そげんとが、どうぞ御用に使うて下さい。
 御用に使うて下さいていうたっちゃ、使いなさるはずがない。ね、何とはなしに、こざっぱりとして、ね、綺麗ななら着物の一つも着て、そしてお給仕でもさせてもらうならば、それで本当のお給仕が出来る。そういう心掛けを持って、御用に使うて下さい。御用に使うて下さいでなからなければ出来ん。そこでです、私共が本気で、いうなら生神を目指させてもらう。土の信心をさせてもらうというような、おかげを頂かなきゃいけないというて、まぁ土についての色々御理解をさせて頂いた。
 福引きが残ってましたから一つ引きなさいというて、福引きを引いてもらった。ところがその福引きに何とあったかというとね、土より出でて土にかえる。ね、だからその途中とても、やはり土の信心をしなければいけない。という札であった。ね、もうここへ来てですね、神様を感じん訳にはいかんでしょうが。私が頂いたのが土偏に成るという字であった。この生き方でいけば成就する。なら自分が引き当てたのも、やはりその土になれよ、土の信心をせろと言う事であった。もうせずにはおられない、ね。
 だから、土の信心をいよいよなら、極めて、土の信心を自分のものにしてしまおうという、いわゆる一心発起がなされて、それを行じていってこそ、始めておかげになるのです。そういうなら生きた神様の働きとか、あー、ね、そこに神を見るような、そこに神の声を聞くような働きのあっておる教会というものは、私は本当に、もう合楽だけじゃなかだろうかとこう思うと。ね、合楽ではそれが感じられる。
 それが頂けれる。それが有り難いのだ。だから、それをね、だから頂いて実感したら、それを本当に行の上に現さなければいけない。なら今度皆さんが、八日の日に引き当てられたその福引きをです、ね、それをやはり今年一年の信心の一つの信条とさせてもろうてです、ね、それを本気で行じなさらなければいけんのです。いよいよ寒修行が始まって、皆さんまた一生懸命の御修行が出来ております。
 今日これはもう毎年ですけれども、日田の綾部さんの所の、ご長男が寒修行の時だけは必ず一月お母さんを乗せてお参りをされる。だから月のうちに、いや一年の内に少なくともその一月だけは30日だけは、お参りが出来るということになるのです。ほんに有り難い。あちらまだ八日に見えとられなかったから、その時の札を引いておられます。そしたらお広前には、徳の貯金に来るところという札であった。皆さんがここにはおかげを頂きに来るというところという風に思うておるけども、違うです。ね、
 丁度銀行に金借りいったり、ね、金を引き出し行く様な所じゃないです。ここは徳の貯金に来るところなんです。ですからお話を頂いて感じて、それを行の上に現して行くと言う様な、信心がなされなければいけない。ね、はぁまぁ本当に有り難いですねと。今日も私はその綾部さんのところの、あ、かずよしさんて言いますが、かずよしさんに言おうと思うておることを、そのね、今日の御理解がそうだったでしょうがと。
 例えば沢山おたかたには財産がある。けれども神様のご信用という裏付けがないならば、今日のご理解と同じ事。だから、あなたがこうやって、お母さんの乗せて、一年のうちに三十回でも、お参りをされるということは、いわば徳の貯金にきよると思うて、楽しゅう有り難うきなさいよと。ね、そうすればあなたのところにはある財産に、裏付けが出来るようなもんだという話を今日させて頂いた。
 それで立たれてから直ぐその、お礼をさせて頂きよりましたら、こうあのまぁこうなんちいうですかね、若い松の盆栽にしたやつの、その根元にね、千両万両ていうですかね、あの赤い実のなるのがありましょう。あれが根元にいっぱい咲いてあるところを頂いたんです。ね、例えば綾部さんの信心が松の信心であるなら、その根方にあの真っ赤な千両万両がこう咲いておる。なんともいえん風情である。
 もうこれをお花にするならば、この松なら松に、いうならば、赤い何かで、こう根締めをしたような何ともいえんここに風情が一段とますようなもの。親子がこういう信心のあり方に成って行く時に、本当の一家中勢をそろえた信心ということになるのじゃないだろかと。かえってこれが信心するとが邪魔になるといったようなのじゃなくて、これに調和していかなきゃいけません。ね、そういう信心。
 今朝からも、ね、ここで、今日は研修の時に色々研修をさせて頂いたんですけれども、んー、本当におかげを頂く名人がおる。いうならおかげを頂くこつあいを、体得しとる人がある。合楽にはそういう人がとても多いです。いうならおかげを頂くコツをしってる。ね、ところがね、頂いたおかげを落とさんですむというような信心の人が非常に少ないです。だからね合楽ではね、私は今朝頂いた、例えばご主人がなかなかおかげを頂いたら、落とさんというか、その、信心をしておられる。
 奥さんが本当におかげを頂くこつあいを覚えてござると言う様な、そういう内容が一人の中にもなからなければいけないという話をしたんだけれども、今日のお話のあの夫婦のお話しは誰じゃったと思うね、ち私がいいましたら、色々なかなかおらんですばい、合楽にそげんそろうたつは。似た者夫婦でですね、そのおかげ頂くコツだけはしっとるばってん、もうおかげを引きずり落とすごたるふうなところは、いくらもその例はあるけれども、家内がおかげを頂くこつあいをしっとる。
 主人がどっこいそれを受けとめて、絶対漏らさないと言う様な人はなかなかおらんです。それで私は、今日は申しましたことでしたけどもね。今日はあの、末永先生が今度引き当てた、この、のは、成り行きを大切にせろということでしたけれども、去年引き当てておった札を持って来て、そして、今年頂いておったそれを、この短冊に書いてくれというてここに持ってきました。
 それで、その成り行きを大切にさせて頂くということの札を書いてやろうと思ったけれども、ね、やっぱりどげん考えても、去年のはどういうことかというと、信心なければ世界は闇なりというのであった。ね、合楽の理想である、末永先生自身の信心の理想でもあろうと、もうとにかく世界に和賀心時代を広げていかなければならない、この暗黒の世にも似た、いうならば地球中が、に死相が現れておるといわれるほどしの、地球中に、生き生きとしたカンフル注射を討たせて頂くような御用。
 そういう使命感に燃えておる、らなければならない。それでやっぱり、去年のあれを書いたがほんなこっじゃろうというて、信心なければ世界は闇なりと書いて渡させて頂いて、そういういうならば、光を頂く、為の信心のいう一つの手立てが、ね、あんたはいよいよもってちったばかりけそすくすぎるけんで、成り行きを大事にしてまちっと落ちついた信心せにゃいけないよという。ね、そして今度あんたげん公子さんが、八日の日に頂いた、私が皆さんが引き当てられたのは皆、皆大体覚えておるです。ね。
 日頃、皆の、ちゃんとこと願っておるけん、は、あの人はあげんとば頂いた。あげんとば頂きた。もうそのたんべんにもうあんまりにも見事ですから、それこそ手が痛いように拍手した。そして今でもやっぱり覚えておるです。ね、公子さんな、とにかく有り難いで受けて行くという、なんか札でした。なんじゃったかねありゃ、ん、頂きます。ね、頂きますという心あらば、当たることなしです。
 もう公子さんがもうすべての事を頂きますという気になって、末永先生が成り行きをいよいよ大事にして、どっしりとした信心するなら、もうこりゃ絶対受ける。そして、落とさない。いうならば夫婦の、一つのサンプルのようなものが出来るだろうというて話たことでした。ね、いよいよ持って成り行きを大事にする。家内が一切を頂きますという心あらばということに、いうようなね。信心が家族の中に、家庭の中に育ってくるならばです。ね、いよいよおかげを頂くことであろう。
 ね、合楽の信心は、成り行きを大事にする、自然を大事にする。というても、そのそれは人間的、もう最高の技術というか、技量がそれに段々上達していって、初めて自然をいよいよいきす、生かすことになり、いうなら神様との合楽の世界がそこにあるのである。自然だからというて、ただ腕こまぬいておって、それこそこえたごの臭いのするような花ばっかりいけとったんではいけないということである。自然ということは、爪がのんだら、いうならばつまなければ。
 髪がのんだらきれいに散髪することが自然なのだと。ね、その辺のところを間違いないように、今年はお互い信心をさせていただかなければなりません。そしていよいよ、合楽でです、ね、それこそ真実性をかぐほどしの、新たかな働きを目の当たりに見ながら、聞きながらのことですから、その信心のふんまえての稽古なのですから、ね、いよいよ、いうならばどのような場合であっても、これはまだ私の信心が足らんのだと分からせてもろうて、そこから一段の信心を進め。
 そこから、また新たなおかげを頂いていく世界を開いていかなければならんと思うのです。ね。ね、おかげが頂けない。自分の信心の狂いを、とにかく発見させてもろうて、それを狂いを直し直し、一つ正確なおかげを頂く。正確な信心をさせてもらわなければならない。この時計は、五年間、それこそ一分でも狂わんという時計だそうですがね、こういう時計のような、こういう正確な信心を一つさせて頂きたい。
 だから皆さんがもっておる時計というのは、ね、家庭の事情の上に、おかげの上に、いうならば互い違いになったり、狂いが来り、それこそ富貴自在なおかげにならないならば、ね、どこかが狂っておると思うて裏を引っくり返してみて、開けてみて、そしてははぁここにここに、こういう狂いがあったと中身の狂いを正させて頂いていよいよ正確な信心を目指さなければいけないと思います。
   どうぞ。